2018-07-12 第196回国会 参議院 内閣委員会 第26号
それで、ですから、小学校一年生のときに東京オリンピックを迎えたあの感動と興奮というのは恐らく大臣とは共有できるのではないかと思いますし、またその後に続く、同年に開催をされた、新幹線、あるいは一九七〇年の大阪万博、それに伴ってこの日本全体が産業界も含めて高揚していく、あの青春時代というか幼少時代からずっと、これはまさしく今の私たちのこの世代の何かエネルギー源であったのではないかなというふうに思います。
それで、ですから、小学校一年生のときに東京オリンピックを迎えたあの感動と興奮というのは恐らく大臣とは共有できるのではないかと思いますし、またその後に続く、同年に開催をされた、新幹線、あるいは一九七〇年の大阪万博、それに伴ってこの日本全体が産業界も含めて高揚していく、あの青春時代というか幼少時代からずっと、これはまさしく今の私たちのこの世代の何かエネルギー源であったのではないかなというふうに思います。
そういう強烈な幼少時代を送ったり、多感な時期を過ごしてきたり、お金にもう小さいときから困るような経験をした人ではなかなか、ごく少数派に数えられるんですよね。そこの部分はきっちりと酌み取っていただいて、無差別平等であるべきだと私は思います。 やはり服も何も、服とかもお金がなかったもので、子供ながらに二日に一遍とか三日に一遍しか学校に行かなかった記憶もございます。
○山本(幸)国務大臣 私も田舎育ちでありまして、まさに田んぼを駆けめぐり、山を登ったりして、そういう幼少時代を過ごしまして、まさに田舎こそ私の原点であるというふうに思っております。
この本には、下村大臣御自身の幼少時代の貧困の危機、そして胃がんという生命の危機を克服して、それでも教育改革に立ち向かってこられた下村大臣の半生が赤裸々に記されておりました。
私が小学校に通っていた幼少時代、いわゆる一九七〇年代後半、時の大平総理が設けられた研究会では、自信喪失と自信過剰を乗り越えるためには、自己の文化を把握して、文化の交流と相互理解を行う必要があり、文化に対する理解と尊敬を教育の重要目的に加えなければならないというふうにされております。
六歳未満から事実上養育していたということが認められた場合におきましては八歳未満まで可能となっておりますが、幼少時代、若い小さなころにそうした特別養子縁組ということが成り立っていくというような現状もございまして、この民法八百十七条の七にございますように、父母による養子となる者の監護が著しく困難又は不適当であることその他の特別の事情がある場合において、子の利益のため特に必要があると認める場合、民法八百十七条
私ごとですが、私も、アメリカ合衆国本土で基地の近くで幼少時代を過ごしました。一九七四年から七五年のことであります。ひげの隊長でおなじみの佐藤正久防衛大臣政務官の留学先でもあった米国の陸軍指揮幕僚大学というのがございます。カンザス州のレブンワース郡というところでありましたが、そこの現地の小学校に通っておりました。NATO諸国の軍人さんのお子さんたちが三十人ぐらい、実に国際色の豊かな地域でありました。
私も柔道を十数年やってまいりまして、選手としては強くなかったんですが、ただ、私、幼少時代から母子家庭という環境で育ちまして、母から、強い心とたくましいハートをはぐくむために、スポーツを通じて、特に柔道を通じて強くなれ、大きくなれと言って柔道に最初に行かされた経緯があるんです。
実は、私は、東京で生まれて、長野県で幼少時代を過ごし、東京に戻りまして、その後、長野県というところで知事を六年務めましたが、今は縁がありまして尼崎市という場所が選挙区でございます。 なぜ伊丹空港がこれだけ利用者がいるのかということは、プロダクト・アウト、供給側の都合でなく、やはりコンシューマー・イン、消費側の希望ということに根差して考えなくてはいけないと思っております。
そういう性格は、僕はやはりその少年がお父さんの、本当だったら額に汗して働く姿を見て感動しなきゃいけないところを、何で金持ちになれないのかなと思う幼少時代にそういうことがあったんではないかというふうに思っているんです。 それで、私はもう一つ非常に疑問があるのがある。それは何かといいますと、西川社長が二〇〇二年にゴールドマン・サックスと会ったという話がありましたよね。
その中で、私こういう冒頭で説明するのは、国連と非常に私は密接な関係を持ってそして幼少時代を送ったというところから多少説明させていただきたいと思います。 私、福岡県生まれでして、そのときには幼稚園のときにユニセフの脱脂粉乳を飲んだ時代でございまして、そしてミルクを運んだトラックはアメリカのNGOであるケアというNGOの団体でございました。
そのアインシュタイン博士が仙台に来たときに幼少時代の揆一がお会いをして、そして言われたそうです。君も頑張ってお父さんのような立派な物理学者になってくれ、勉強してくれって激励をされたらしいです。 その後、戦争がありまして、戦後、揆一は国会議員になりました。国会議員になって、再びアインシュタイン博士とお会いする機会がありました。で、揆一は一言申し上げたそうです。
そしてまた、私の後に今日荻原健司先生が質問されますけれども、荻原先生もオリンピックに出たということで、どういう幼少時代を送ったらそうなるんだろうとか、そういう点では非常に幼児の時代、生まれてから、生まれる前から、保育の大切さ、そして幼児教育の大切さをもう痛感している一人でございますので、四十五分しかないということなのでどこまで質問できるか分かりませんけれども、大臣、そして銭谷局長、そしてまた関係の伍藤局長
もちろん、子供を虐待することは言語道断ではあるのですが、親の幼少時代のそういう経験なんかを考えたときに、一概にその親だけを一方的に責めることはもしかしたらできないんじゃないか、そのように私は思っています。
今後の国民食生活は粉食混合形態が必要だが、米食偏重是正はなかなか困難なため、学校給食により幼少時代に教育的に配慮された合理的な食事になれさせるということを文部大臣が強調されました。
今後の国民食生活は粉食混合形態、つまりパンと日本の米ですね、粉食混合形態が必要だが、米食偏重是正はなかなか困難なため、学校給食により幼少時代に教育的に配慮された合理的な食事になれさせる、そういうことを提案理由の一つに述べていらっしゃいました。
君は、郷里の城下町新発田で、四人兄弟姉妹の次男として、武家の家系である父君大郁氏の薫陶と、母君の愛情に支えられ、幼少時代を過ごされました。君の多彩な才能は、まず書道において発揮され、小学五年生のときには全国書道大会において第一位に輝き、数々の商品はリヤカーいっぱいになるほどであったとのことであります。
先生は、生後三カ月足らずで大伯母ヨシさんのもとに預けられ、幼少時代を過ごされました。ヨシさんは、安倍家嫡嗣である先生を厳しくも温かくしつけられました。 長じて、先生は、県立山口中学、旧制第六高等学校に進まれました。先生は、中学、高校時代を通じ、父君が政務で東京暮らしが多かったこともあって、両親のいない生活の寂しさを紛らすため、剣道と文学に没頭されました。
ということは、幼少時代に、青少年時代に舌につけた味というものは一生涯を左右するというそのことが、かむことがあごの発達になり、あごの発達が知能の発育になる、こういうとらえ方において、学校生活における学校給食のあり方というのが人間形成をする上から非常に大事なことである、このことを結論として言います。
ところが、いろいろと研究し、あるいはまた各方面の議論もだんだんと突き進めてまいりますと、少年非行の原点は、何といっても幼少時代、ことに母親の育児というものがいかに重大であるかというところに戻ってまいります。